名古屋城での出会い

名古屋城での出会い - 名古屋城での出会い 『』移動: ナビゲーション, 検索 この項目では、愛知県名古屋市にあった名古屋城での出会いについて記述しています。
佐賀県唐津市にあった名護屋城での出会いについては名護屋城での出会いをご覧ください。
名古屋城での出会い(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城での出会い郭である。
金鯱城での出会い、金城での出会いともいい日本100名城での出会いにも指定されている。
名古屋城での出会い(愛知県)天守(大天守と小天守)通称金鯱城での出会い、金城での出会い、柳城での出会い、亀屋城での出会い、蓬左城での出会い城での出会い郭構造梯郭式平城での出会い天守構造連結式層塔型(1612年築 非現存)(1959年再 SRC造外観復元)築城での出会い主徳川家康築城での出会い年1609年(慶長14年)主な改修者名古屋城での出会い再建委員会主な城での出会い主尾張徳川氏廃城での出会い年1871年(明治4年)遺構3櫓・1門、庭園、石垣、堀指定文化財国の重要文化財(櫓3棟、門1棟)位置北緯35度11分7.77秒東経136度53分56.71秒 表・話・編・歴 目次1 概要2 歴史・沿革2.1 戦国時代2.2 江戸時代2.3 近代2.4 現代3 構造3.1 立地3.2 縄張3.3 本丸3.3.1 天守3.3.2 本丸御殿3.4 二の丸3.5 西丸3.6 御深井丸3.7 三の丸3.8 名古屋城での出会いの金鯱3.8.1 盗難事件3.8.2 名古屋の金鯱に由来するもの3.8.3 金鯱の外部施設展示4 城での出会い周辺4.1 お堀電車5 遺構・文化財5.1 現存する文化財5.2 焼失した文化財6 作品6.1 映画7 現地案内7.1 所在地7.2 交通アクセス7.3 イベント8 脚注9 参考文献10 関連項目11 外部リンク// 概要名古屋城での出会いは、織田信長誕生の城での出会いとされる今川氏・織田氏の那古野城での出会い(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城での出会いしたとされる。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城での出会いとして明治まで利用された。
大坂城での出会い、熊本城での出会いとともに日本三名城での出会いに並び称され、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城での出会いで持つ」と歌われている。
大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城での出会いだけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期までは現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城での出会い跡は名城での出会い公園として整備されている。
歴史・沿革 戦国時代16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城での出会いの起源とされる。
この城での出会いは、のちの名古屋城での出会い二の丸一帯にあったと考えられている。
1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城での出会いと改名された。
信秀は一時期この城での出会いに居住し、彼の嫡男織田信長はこの城での出会いで生まれたといわれている。
のちに信秀は古渡城での出会いに移り、那古野城での出会いは信長の居城での出会いとなったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城での出会いに本拠を移したため、廃城での出会いとされた。
江戸時代清洲城での出会いは長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城での出会いとして、名古屋に城での出会いを築くことを決定。
1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城での出会いが開始した。
現代にみる清洲越しの距離感。
清洲城での出会い模擬天守からみた名古屋城での出会い(写真中央部)。
2009年2月。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。
縄張は牧野助右衛門[1]。
石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。
天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。
清洲からの移住は、名古屋城での出会い下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城での出会いに移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。
この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城での出会い小天守(下記にあるように、名古屋城での出会い内西北隅櫓が相当するか)も移るという徹底的なものであった。
1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
近代明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城での出会いの破却と金鯱の献上を申し出た。
しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城での出会い郭の保存を決定。
このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。
1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城での出会い内に置かれた。
1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
離宮時代の名残、本丸隅櫓に残された菊花紋瓦保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。
1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。
その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。
名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城での出会いを市民に一般公開し、また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。
太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させたりなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。
米軍はあくまで誤爆だったとしている。
現代戦後、三の丸を除く城での出会い址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城での出会い公園とされた。
園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。
また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。
天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
雪が積もる本丸御殿跡と天守。
雪のため御殿跡の配石がわかりやすくなっている。
2008年2月10日天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊等の資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。
市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。
2007年(平成19年)本丸御殿復元の許可が文化庁よりあった。
現在、2008年(平成20年)に再建工事を着工し、2010年(平成22年)における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。
またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。
2022年(平成34年)完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される[2]。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城での出会い(44番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城での出会いスタンプラリーが開始された。
構造 立地名古屋城での出会いの空中写真(上が北)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。
名古屋城での出会いの城での出会い地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。
この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。
築城での出会い以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。
また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城での出会い物資の輸送とともに、名古屋城での出会い下町の西の守りの機能を果たした。
縄張名古屋城での出会いの縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城での出会い壁が多く、角が直角で単純なつくりである。
したがって、姫路城での出会いのような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者には好まれず、ある軍学者[誰が?]は実際に「縄張宜しからず」と酷評した。
しかし、現代の城での出会い郭研究者[誰が?]からは、名古屋城での出会いが築城での出会いされた江戸時代初期は攻城での出会い戦術・技術が成熟しきっていた時期であり、その時点で、徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城での出会いを、あえてこのような縄張にしたことは考慮すべきことである。
当時の名古屋城での出会いの築城での出会い思想が、篭城での出会い戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、あるべき篭城での出会い戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、縄張の良否を簡単に断言することはできない、という意見が見られる。
構造は典型的な梯郭式平城での出会いで、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。
さらに南から東にかけて三の丸が囲む。
西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。
南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城での出会いと城での出会い下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。
西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城での出会い下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積をもつはずだったが、大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。
但し、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。
本丸現存する本丸隅櫓桜の展望名所でもある辰巳隅櫓からみた天守。
2008年4月本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。
門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。
ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。
本丸の3つの虎口のうち南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に2重の城での出会い門で構成される枡形門[3]があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。
外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた[4]。
馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。
また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城での出会いの天守におよぶ。
また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。
現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。
多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5m強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。
多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での出会いでの現存例はない。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた[4]。
現存しているのは南二之門である。
不明御門は埋門(うずみもん)形式で非常口として使われていたが、戦災により焼失した。
南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。
他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。
まず馬出しへの土橋を渡り、石塁[4]に突き当たり横に折れ、本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。
なお現在空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放されている。
天守外観復元された大天守天守は本丸の北西隅に位置する。
連結式層塔型[5]で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。
大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6m(石垣19.5m、本体36.1m)と、18階建ての高層建築に相当する。
高さでは江戸城での出会いや徳川再築の大坂城での出会いの天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び、その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7尺)が敷き詰められていたといわれる。
層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残を残す。
大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が2層目以上のすべてに葺かれている。
慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、1755年(宝暦5年)に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。
また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が石垣の上に設けられた。
壁面は大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。
外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。
また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。
小天守は2層2階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。
平面は長方形で外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城での出会いの3層天守よりも大きい。
大天守の西にもう一つの小天守があったもしくは、建てられる計画があったという説がある。
大工頭を担当した中井氏にその説の根拠としている小天守の描かれた指図[6]が残されており、また実際に、大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる[7]。
天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城での出会いの危機も切り抜けた。
推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火して焼失したといわれている。
1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。
このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC)造の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日[8]のこととなった。
再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。
外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。
本丸御殿通常は城での出会い主(藩主)が居住する御殿であり、実際に築城での出会い直後はそうであったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用とすることになり、以後藩主は二の丸に居住するようになった。
しかし、実際に本丸御殿を使った将軍は秀忠と家光のみで、その後はまったく使われず、尾張藩士により警備と手入れが行われるだけであった。
御成専用とするだけあって、本丸御殿は当時の二条城での出会い本丸御殿に匹敵した。
南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。
他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。
これら殿舎等はすべて第二次世界大戦で失われたが、内部にあった障壁画の一部は取り外され、隅櫓などに収められていたため焼失を免れ、それらは重要文化財に指定され、再建天守に保存されている。
現在本丸御殿の再建計画が実施されており、平成21年1月19日に着工した。
二の丸二の丸は当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二の丸に将軍の御座所を設けていた。
家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折には二の丸に滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二の丸にあった平岩親吉(1611年(慶長16年)没)の屋敷を改修して、1618年(元和4年)二の丸御殿とした。
それ以後、二の丸御殿は「御城での出会い」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。
本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。
その面積は、本丸・西丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。
北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二の丸庭園からの景観との関係があったと思われる。
西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三の丸と連絡していた。
この鉄御門も桝形・2重城での出会い門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二の丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。
二の丸御殿は二の丸の北側に位置し、南側に馬場があった。
二の丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。
御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。
黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二の丸庭園があった。
この二の丸庭園は藩主専用の庭で、城での出会い郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。
初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。
現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。
その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。
馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。
また、二の丸は名古屋城での出会いの前身で織田信長最初の居城での出会いであった那古野城での出会いの跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。
西丸西丸(にしのまる)は名古屋城での出会い内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城での出会い門構造で固めて三の丸と連絡していた。
南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。
郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
西丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1910年(明治43年)に旧江戸城での出会い蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。
現在の正門がこれである。
なお、現在の西丸には名古屋城での出会い管理事務所と天然記念物カヤの木がある。
御深井丸御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西丸とも狭い通路でつながっていた。
名古屋城での出会い西北隅櫓(清洲櫓)南西より。
2009年2月櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。
3層3階のその規模は弘前城での出会い天守や丸亀城での出会い天守も上回る大きさである。
1611年(慶長16年)に清洲城での出会い天守または小天守を移築したものと伝えられているため清洲櫓とも呼ばれている。
解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっているため、実際に清洲城での出会いから移築されてきた可能性もある。
戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっているが、抜本的対策がないままとなっている。
御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。
また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。
名古屋市内に現存する最古の煉瓦作りと言われる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。
乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたと言われる。
1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に登録された。
その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。
三の丸三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。
郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。
門は5つあり、西に巾下(はばした)御門(埋門)、南面西側に御園(みその)御門、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。
それぞれに桝形を持っていた。
ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。
三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、一宮市の妙興寺総門が清水御門を移築したものであるらしい。
名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。
明治以降は官庁街として発展した。
また三の丸外の名古屋城での出会い外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された(後述)。
現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎が建てられ、愛知県行政の中枢地域である。
名古屋城での出会いの金鯱2005年日本国際博覧会で公開された金鯱天守屋根に載る現在の金鯱(2009年4月)焼失前の金網に覆われた金鯱1612年(慶長17年)名古屋城での出会い天守が竣工した当時のものは一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。
高さは約2.74mあった。
しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。
この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあったこともある)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。
1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。
その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。
金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。
徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失している。
焼夷弾で焼失した金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。
現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、全国でも数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により復元製造された。
一対に使用された金の重量は88kgである。
盗難事件金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。
江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。
明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。
ただし、3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。
名古屋の金鯱に由来するものスタンプメーカーのシヤチハタ(本社は愛知県名古屋市西区)もこれを由来にする。
戦前のプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在ではJリーグクラブに名古屋グランパスエイト(grampusは広義でシャチを指す)がある。
名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」も金鯱をモデルにしている。
かつては名古屋港の遊覧船でも金鯱をかたどった船が使われており、「金鯱」(きんこ)と呼ばれていた。
中京競馬場では金鯱賞が開催される。
名古屋牛乳シャチのマークの牛乳。
金鯱の外部施設展示金鯱が公開された金鯱ドーム市民にお披露目される金鯱名古屋城での出会いの金鯱が2005年(平成17年)3月24日に開会した愛・地球博の開会式典で展示された。
これまでにも名古屋城での出会いの博覧会開催により、天守から地上に降ろして名城での出会い公園内の博物館に展示された事はあった(今回の場合は愛・地球博に併せて開催された新世紀・名古屋城での出会い博のための展示だった)が、外部施設での展示は1959年(昭和34年)に再建されてからは初めてのことだった。
また前日の3月23日は名古屋市内16区を雄・雌に分けて周り、一般市民にお披露目し中区栄では2体揃ってのパレードを行った。
その時の公開された各区の場所は以下のとおり。
雄:北区役所(北区) - 守山区役所(守山区) - 徳川園(東区) - 榎公園・榎小学校(西区) - 稲葉地公園(中村区) - 富田支所(中川区)雌:鶴舞公園(中区) - 瑞穂運動公園野球場(瑞穂区) - 植田公園(天白区) - 緑区役所(緑区) - 南区役所(南区) - 名古屋港ガーデンふ頭(港区) - 熱田区役所(熱田区)2体合流ルート:UFJ銀行別館跡地(中区) - 栄公園までパレード - 東山公園新池駐車場(千種区) - 藤が丘駅前(名東区) - 愛知万博長久手会場EXPOドーム(愛知郡長久手町) 城での出会い周辺 お堀電車名古屋城での出会い三の丸を囲む外堀の底には、明治後期から昭和後期にかけて電車が走っており、「お堀(濠)電車」とも呼ばれた。
大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城での出会い西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋官庁街への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下〜大曽根間、10月1日に堀川〜土居下間を開業させた。
土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。
城での出会いの堀の中に線路を敷く例は、中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。
そのかわり、堀の角部で半径60mの急曲線があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いるなど、線路敷設には苦労の跡が見られた。
瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川〜土居下間が休廃止された。
現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。
遺構・文化財第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城での出会い内を埋め尽くしていたが、1945年(昭和20年)5月14日8時20分頃、米陸軍のB-29による焼夷弾により天守を含むほとんどを焼失した。
現在残る尾張藩時代の建物は6棟(本丸辰巳隅櫓、同未申隅櫓、同南二之門、旧二の丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二の丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓)のみ。
すべて重要文化財である。
また、昭和27年(1952年)3月29日に城での出会い域内が国の特別史跡に指定された。
このほか、二の丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存している。
現存する文化財重要文化財西南隅櫓東南隅櫓西北隅櫓 表二ノ門(以上4棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定、1950年(昭和25年)文化財保護法施行に伴い重要文化財となる。
)二之丸大手二之門旧二之丸東二之門(以上二棟は1975年(昭和50年)、重要文化財に指定)旧本丸御殿障壁画 331面旧本丸御殿天井板絵 331面焼失前の本丸 焼失した文化財大天守、小天守、東北隅櫓、表一ノ門、東一ノ門、東二ノ門、不明門、正門 御殿玄関、大廊下、表書院、対面所、梅之間及び鷺廊下、上洛殿、湯殿書院、黒木書院、上御膳所、下御膳所、柳之間及び孔雀之間、上台所以上20棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定。
1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。
本丸御殿障壁画の一部(壁貼付絵などの移動不可能だったもの)も同時に焼失した。
作品 映画「モスラ対ゴジラ」ゴジラが堀で転んで天守を壊してしまう。
「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」「ゴジラvsモスラ」 現地案内 所在地愛知県名古屋市中区本丸1-1 交通アクセス鉄道名古屋市営地下鉄名城での出会い線市役所駅下車 7番出口より徒歩5分名古屋市営地下鉄鶴舞線浅間町駅下車 1番出口より徒歩15分名鉄瀬戸線東大手駅下車 徒歩15分路線バス名古屋市営バス名古屋城での出会い正門前バス停下車 徒歩1分市役所バス停下車 徒歩5分基幹バス(名古屋市営市バス、名鉄バス)市役所バス停下車 徒歩5分自動車駐車場520台30分毎に180円 イベント名古屋城での出会い夏まつり毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。
城での出会い内で、薪能や楽市・楽座などが催される。
1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されている。
2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城での出会い博と愛・地球博開催のため中止。
なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。
2006年(平成18年)からは名古屋城での出会い宵まつりとして開催される。
脚注[ヘルプ]^ 西ヶ谷恭弘著『ポケット図鑑 日本の城での出会い』主婦の友社 1995年^ (2007年)11月19日付け 朝日新聞^ 桝形内では通路を屈曲させ、周りを多聞櫓で囲んで通過を困難にしている。
^ a b c 南御門の馬出し内西側の石塁は撤去され、その外側の堀は埋められて平地になっている^ 大天守と小天守を土橋によって連結した形^ 「なこや御城での出会い惣指図」中井家蔵^ 西ヶ谷恭弘監修『日本の城での出会い [戦国〜江戸]編』世界文化社 1997年^ その6日前に伊勢湾台風により名古屋市をはじめとした東海地方全域に大きな被害を受けている。
参考文献『戦国の堅城での出会いII 戦略・戦術に応じた多彩な城での出会い郭群』学習研究社、2006年『名古屋城での出会い 尾張を守護する金の鯱』学習研究社、2000年『復元大系日本の城での出会い4 東海』ぎょうせい、1992年『日本100名城での出会い公式ガイドブック』 関連項目ウィキメディア・コモンズには、名古屋城での出会い に関連するマルチメディアがあります。
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